田原市の沿革


ページ番号1001447  更新日 2015年10月6日


古代から現代まで、田原市の沿革を掲載しています。


この地域には、吉胡・伊川津・保美の三大貝塚をはじめ、数多くの縄文遺跡が点在しており、昔から人々の生活が営まれてきました。奈良時代からは製塩が、また、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、やきもの(渥美焼)が盛んとなり、中世における窯業の一大産地を形成しました。

南北朝の争乱期から戦国時代になると、それまで伊勢神宮領が大部分であった渥美半島でも、公卿領、さらに戦国国人層の所領へと徐々に支配の形態が変化しました。

[画像]写真:田原城跡(15.1KB)

文明12年(1480年)頃、田原城を築いた戸田氏は、一時、渥美半島全域と知多半島の南半分を領有しましたが、天文16年(1547年)には、今川義元、永禄8年(1565年)には、徳川家康の攻略を受け、その支配下となり、天正18年(1590年)には、東三河一円を領有した吉田城主池田輝政に統治されることになりました。

江戸時代になると渥美半島内は、藩領・旗本知行地・天領(幕府直轄領)・寺領が入り組んで存在しました。田原城を中心とする田原藩は、寛文4年(1664年)には、三宅康勝が田原城主となり、以後、三宅家が12代にわたり1万2千石を領有しています。

なお、幕末の先覚者、画家として有名な渡辺崋山は、田原藩の家老職にありました。一方、元禄元年(1688年)には、大垣新田藩が戸田氏成によって成立し、市内福江町にあたる畠村に陣屋を構え、そのほかにも旗本清水氏・諏訪氏・本多氏などの支配が明治維新まで続きました。

[画像]渡辺崋山の肖像画(8.8KB)

明治初年(1868年)、現田原市の地域には、59の村(田原:31村、赤羽根:6村、渥美:22村)が存在していました。その後、明治4年(1871年)の廃藩置県、改置府県により、渥美半島における全村は額田県の所属となり、翌年には現在の愛知県の所属となりました。

明治11年(1878年)の郡区町村編成法の公布時までには、41の村に集約され、さらに、明治22年(1889年)の愛知県における市制町村制の施行時までに15村へと統合が進みました。(明治の大合併)

明治38年(1905年)、愛知県が町村合併計画を公表しました。これを契機に翌39年には豊橋市と渥美郡が分離し、田原地域は杉山村、田原町、野田村、神戸村の4町村となり、赤羽根地域では赤羽根村が誕生し、渥美地域では、伊良湖岬村、泉村、福江町の3町村に再編されました。

昭和に入り、戦後、地方自治法の施行を経て、昭和28年(1953年)には、町村合併促進法が施行されました。これを受けて昭和30年(1955年)1月には田原町、野田村、神戸村の合併により田原町が新設され、同年4月には、田原町が杉山村(現豊橋市)の一部であった六連地区を編入することにより、今回の合併前の田原町の区域となりました。同じく同年4月、伊良湖岬村、泉村、福江町の合併により渥美町も誕生しました。(昭和の大合併)。また、赤羽根村では、昭和33年(1958年)に町制を施行して赤羽根町となりました。

その後は、田原・赤羽根・渥美による3町の時代が50年近く続きましたが、合併特例法の改正を背景としたいわゆる平成の大合併により、平成15年(2003年)8月20日、田原町が赤羽根町を編入合併するとともに市制施行を行い、田原市となりました。さらに、2年後の平成17年(2005年)10月1日、渥美町の編入合併により新「田原市」が誕生しました。


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